約 11,571 件
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/1492.html
名稱:陳群 伺服器及顏色:5、6服藍 類型:文 性別:男 生命值:561 武力:38 智力:33 防禦:13 敏捷:46 運勢:109 敘述:陳群,字長文,潁川許昌人,三國時曹魏名臣。曹操殺掉馬騰後,有言劉備將興兵取川,曹操因而深表畏忌;陳群時為治書侍禦史,向曹操獻策,建議起大軍 南征孫權,而劉備意在兩川,必不救權,故能一舉得江東,其後徐圖西進,吞荊並川,以定天下。曹操對其策極表贊同。可惜諸葛亮派人?書西涼,使馬超興兵入 關,曹操急於應付,被迫擱下陳群之策。後來陳群一直位居要職,先後受曹操、曹丕托孤,成為魏國重臣,官至司空。後又隨司馬懿遠征公孫淵於遼東。其子陳泰, 亦是魏國後期名將。
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/990.html
すごいよね、この人。 「愛」というステータスがあるなら100だね。 -- (名無しさん) 2010-02-04 22 51 31 我らが曹操の正室殿。 楽奏の効果で、旦那の虚実をフル回転させてやろう。 荀攸殿には、他の計略担当部隊を任せるもよし。 勿論スリーマンセルで無限計略を行うのもいいだろう。 -- (名無しさん) 2010-05-22 23 38 13 S1、S2の董卓で曹操を登用したい場合、 普通に登用しようとすると嫌悪関係のせいで登用出来ないが、 先に彼女を登用すると婚姻関係が優先されて登用出来るようになる。 このページとは関係ないが、呂布で関張を登用したい場合も 先に劉備を登用すれば嫌悪関係を無視して登用出来るようになる。 -- (名無しさん) 2010-10-25 19 31 49 曹操との親愛関係がないのは曹操が生きてて彼と結婚してないシナリオが存在しないから? それはともかく特技の楽奏は計略隊の副将に向いてる。 魏には曹操に限らず知謀の士が多いので彼らのサポートに回ってあげよう。 -- (名無しさん) 2011-05-20 19 39 35 親愛関係なしなのは単なる手抜きかな? 素人考えでも曹植は親愛にするだろうに… -- (名無しさん) 2011-06-03 19 30 11 この人の愛はアガペーだから、特別扱いする相手はいないっていうKOEIさんの粋な演出なんだよ、きっと 知力ブーストにはやや心もとないが、とりあえず参軍させればどの部隊でも役に立ってくれる 内政要員としても水準以上 -- (名無しさん) 2011-06-03 19 47 25 短命な人が多い女性武将の中では一番長生き。 (いにしえ武将を入れると一番長生きなのは秦良玉だが) -- (名無しさん) 2011-06-03 20 58 01 ↑辛憲英が79歳まで生きるみたいから一番では無いな。 -- (名無しさん) 2013-03-31 19 41 09 この人を曹操と組ませると、百出持ちの荀攸を曹操と別部隊に出来なくもない。 -- (名無しさん) 2013-03-31 20 30 43 曹操死んで曹丕が後継いだから捕らえて符節台のところで降らせようしたけど忠誠100から全く減らない(忠誠255のうちの100) 同じく義理が高い(最高)で相性も変わらない夏侯惇でさえバシバシ減ってるのに・・・ 何か補正でもついてるのだろうか -- (名無しさん) 2013-11-17 02 51 36 我らが曹操の正室殿 この人は正室ではなくて側室、ちなみに正室は丁夫人だぞ。 -- (名無しさん) 2013-11-17 10 06 15 ↑曹操が丁夫人と別れた後は卞氏が正室になってる。 -- (名無しさん) 2013-11-17 15 53 51 楽奏は計略のコストダウンではなく気力回復なので、曹彰・楽進等の特技隊に配属するのもベネ こいつらは脳筋なので、計略隊だと空気になりがちな知力政治がいい感じにサポートしてくれる -- (名無しさん) 2015-04-06 22 11 06 曹操に尽くすキティちゃん -- (名無しさん) 2016-11-27 19 23 06 ↑どのへんがキティなのか解説求む。 曹操に尽くしてるのはわかるんだが。旦那の子だからって自分と血繋がってない子を育てるの、すげえと思う -- (名無しさん) 2016-11-27 19 36 13 いいね -- (名無しさん) 2021-09-25 19 52 17
https://w.atwiki.jp/kansangokushi/pages/185.html
編集 鮑信は、後漢後期の人物。済北相のときに誅董卓の兵を挙げる。鮑勛の父。 情報 鮑信 姓氏 鮑 諱 信 字 叔業 本貫地 泰山郡平陽県 家柄 平陽鮑氏 父 鮑丹 誕生 元嘉元年(151年) 官歴 辟召(大将軍何進) 騎都尉 帰郷 行破虜将軍(袁紹署) 済北相 評 少(おさな)くして大節を有し、寬厚にして人を愛し、沈毅にして謀を有す。乱に遭って兵を起すと雖も、家は本は儒を修め、身を治めて倹に至り、而れども将士を厚く養い、居に余財を無し。士は此を以ってこれに帰した。 死去 初平三年(192年)、寿張県にて黄巾と戦い、殊死(決死)して太祖(曹操)を救った。太祖は僅かに囲みを潰やして出ることを得たが、鮑信は遂に没した。 享年 四十一 追贈 建安十七年、太祖(曹操)は鮑信の功を追録し、上表して鮑邵を新都亭侯に封じた。鮑勛を丞相掾に辟した。 子 鮑邵 鮑勛 事跡 危険を避ける 少(おさな)くして大節を有し、寬厚にして人を愛し、沈毅にして謀を有した。 霊帝の中平年間(184-189年)、大将軍何進によって辟召され、騎都尉を拜した。 中平六年(189年)、何進の目論見によって東方へ遣わされ、郷里へ帰って募兵し、千余人を得た。しかし、還って成皋県に到ったところで何進は宦官に誅殺されていた。 洛陽に至った頃、董卓もまた入城していた。鮑信は董卓が必ず朝廷を乱すと察し、袁紹に董卓を襲うことを勧めた。曰く、 「董卓は強兵を擁すと雖も、異志を有しております。今、早く図らねば、まさに制する所となります。その初めて至った疲労に及び、これを襲って禽(とりこ)とすべきです」 袁紹は董卓を畏れ、計画を発することができなかった。鮑信は自分の軍を率いて郷里へ還った。 起兵し曹操に附く 平陽県に戻ると、徒衆(歩兵)二万、騎七百、輜重五千余乗を収集した。 この歳の末、曹操が陳留郡己吾県にて起兵し、鮑信とその弟の鮑韜は兵をもってこれに応じた。 初平元年(190年)討董卓の連合が結成され、曹操と袁紹の表によって鮑信は行破虜将軍に、鮑韜は裨将軍となった。 時に袁紹の勢力が最も盛んで、豪傑は多く彼に集結した。鮑信は独り曹操に言うには、 「そも、知略は不世出、英雄を総じ、もって乱を撥し(治めて)正に返すことの能う者は、君だ。いやしくもその人に非ずんば、強といえども必ずや斃れる。君は殆(およ)そ天の啓く所だ」 として、早々と深く交結した。曹操もまた鮑信と親しくし、その人物を異(特別な人物)とした。 曹操に従って洛陽へ進軍し、汴水で徐栄の軍と遭遇して敗れた。鮑信は瘡(傷)を負い、鮑韜は陳(陣列)にあって戦亡した。 初平二年(191年)、袁紹が韓馥の州牧の位を劫奪し、冀州を根拠地とした。鮑信は曹操に言うには、 「奸臣が釁(すき)に乗じ王室を蕩覆すると、英雄が節を奮い天下が嚮応(呼応)したのは、義だったからだ。(しかし)今、袁紹は盟主となり、権に因って利を専らとし、まさに自ら乱を生まんとしている。これはまた一つの董卓を有したものだ。もしこれを抑えんとしても、すなわち力では制すること能わず、祗(まさに)に以って難に遘(あ)うばかりで、またなぜ(すく)済}うこと能うだろうか? 且(しばら)く大河の南に規(はか)り、以ってその変を待つべし」 曹操はこれを善しとした。黒山賊の于毒らが兗州東郡を襲うと、曹操は河水を渡って東郡を救い、東郡太守となった。曹操は上表して鮑信を済北相とした。 青州黄巾との戦い 初平三年(192年)、青州黄巾の衆百万が兗州の境界に侵入し、任城国相の鄭遂を殺し、転じて東平郡に入った。兗州刺史の劉岱はこれを撃とうと考えた。 鮑信は諫めて曰く、 「今、賊の衆は百万、百姓は皆震え恐れ、士卒は闘志無く、敵すべきではありません。賊衆を観るに、群輩が相隨(するのみで秩序が無く)、軍には輜重が無く、ただ鈔略を以って資としております。今は士衆の力を蓄え、先ずは固守を為すに若くはありません。彼は戦を欲しても得られず、攻めてもまた能わず、その勢は必ずや離散するでしょう。後に精鋭を選び、その要害に拠ってこれを撃てば、破るべくものです」。 劉岱は従わず、遂に黄巾と戦い、果して殺されるところとなった。 鮑信は州吏の万潜らと東郡に至り、曹操を迎えて兗州牧を領させた。 曹操は賊が勝ちを恃んで驕っていることから、奇兵(伏兵)を設けてから挑戦してみせ、東平郡寿張県にて賊を撃とうとした。 曹操は鮑信を連れて歩騎千余人を率い、行って戦地を視た。しかし後方の歩軍(歩兵)がまだ至らぬうちに、にわかに賊の屯営と接触し、戦ったが利せず、死者は数百人となって、引いて還った。賊は尋(つづ)いて前進してきた。黄巾は賊となって久しく、しばしば勝ちに乗じて、兵は皆精悍だった。曹操は旧兵(熟練兵)が少なく、新兵は習練していなかったので、軍を挙げて皆懼れた。 鮑信は殊死(決死)して戦い、もって曹操を救った。曹操はかろうじて囲みを潰して(破って)脱出することができたが、鮑信は遂に戦没した。時に年四十一。 曹操は甲を被(かぶ)り冑を嬰(かぶ)り、親しく将士を巡って賞罰を明らかに勧めたので、衆はまた奮いたち、(敵の)間を承(う)けて討撃し、賊は稍(やや)折れて退いた。賊はこれによって曹操に書を移して曰く、 「昔、(あなたは)済南に在って神壇を毀壊されました。その道は乃ち中黄太乙と同じく、道を知るが似若(ごと)くでありましたのに、今、更めて迷い惑っておられます。漢行はすでに尽き、黄家がまさに立つべきなのです。天の大運は、君の才力の能く存するところに非ぬものですぞ」 曹操は檄書を見て、これを罵倒し、しばしば降伏の路を開示しつつ、遂に奇伏(伏兵)を設けて昼夜会戦した。戦えば輒(すなわち)ち(そのたびに敵を)禽獲し、賊は乃ち退走した。 曹操は鮑信の喪(遺体)を購い求めたが得られず、衆人は木に刻して鮑信の形状の如くし、祭って哭した。 曹操は黄巾を追って済北国に至り、黄巾は降ることを乞うた。冬、兵卒三十余万、男女百余万口の降伏を受け、その精鋭な者を収めて、号して青州兵とした。 生き様と死後 鮑信は乱に遭って兵を起したとはいえ、本来は儒学を修めた家柄で、自身を治めて倹(つづまやか)な生活に至った。しかしながら将士を厚く養ったため、住居に余財は無かった。士はこのことから鮑信に帰した。 建安十七年、曹操は鮑信の功を追録し、上表して子の鮑邵を新都亭侯に封じた。鮑勛を丞相掾に辟召した。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 平陽県 出身 泰山郡 官歴 守相 官歴 破虜将軍 官歴 騎都尉 平陽鮑氏 辟召 関連項目・人物 「鮑信」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
https://w.atwiki.jp/gukko/pages/19.html
李姫 りき 李典(字:曼成) りてん付記 蒼天李典 李通(字:文達) りつう、りとう蒼天李通 劉延 りゅうえん 李姫 りき 生没:? 本貫:? 官:? 曹操の側妾のひとり。曹乗、曹整、曹京という三人の男子を産んだおかげで、姓のみ歴史に残された。 ちなみに三人の息子とも早死にしている。 蒼天では、わずかワンカット登場。丁美湖を離縁した曹操はフラリと李姫の室を訪れたのだが、ピシャリと鼻先で戸を閉められ、 「お許し下さいませ。あなたの妻女たちはみな丁夫人の味方でございます」と、涙ながらに言い捨てられる。 このとき曹操は掌をじっと見つめて呆然とした様子。あるいは親指を挟まれて痛かったのかも(そう見えた人、いません?)。 李典(字:曼成) りてん 生没:174年(?)~209年(?) 本貫:州山陽郡鉅野県 官:破虜将軍 隠れた名将として、「三国演義」派にも妙な人気がある。敵の策略をいち早く見抜いているのに、上官が無能だから進言が容れられない気の毒な人。曹操軍のジャン・ロベール・ラップとも。 「三国演義」では曹操の旗揚げから登場している最古参武将だが、見ようによっては、三人の武将をひとりとして数えていると言えなくもない。 ひとりめは、李典の従父・李乾。山陽郡の乗氏県一帯を支配していた豪族だったが(もともと兗州一帯の李氏は代々強力な私兵集団を擁する大豪族だった。李乾はその分家だろう)、私兵数千を率いて曹操軍に参加。部将として勇猛果敢で鳴らし、陶謙戦、袁術戦などで度々武勲を上げた。しかし、呂布の謀将、薛蘭・李封らに謀叛を持ちかけられたとき、これを断って殺害される。 で、この李乾の息子・李整が「二代目李典」にあたる。父に似て丈夫として知られ、すぐさま私兵集団を立て直して呂布軍に逆撃を加え、ついには薛蘭・李封の両将を敗走させた。後、青州刺史にまで累進したが早世。子はなく、従弟が跡を継ぐ。 こうして、その「従弟」李典が世に出てくる。まだ30前の青年である。 李典は、しばらくは地方の県令や太守を歴任。このまま穏やかな内政官として生涯を過ごすかと思いきや、対袁紹戦では独断で兵を動かして大勝を得るなど、存外な武略を見せる。猪突に傾く傾向のある楽進とコンビを組まされるのは、この頃から。 ちなみに夏侯惇が長生きできたのもこの李典のおかげ。劉備の埋伏計に翻弄され殲滅の危機にあった夏侯惇軍を、李典は間一髪で救い出している(「三国演義」でも博望の戦いで同様の活躍を見せている)。 赤壁の後、張遼・楽進とともに合肥に駐屯。三人で対呉方面軍団を預かることになるのだが、当時の曹操軍団の部将はそれぞれに我が強く、お目付約の趙儼が監督しないと作戦行動に支障を来すほど仲は悪かったという。中でも、李典と張遼の仲の悪さは有名だったようだ。従父・李整の仇と見ていたのかも。 しかしながら、いざ呉軍が攻めてきたとなれば、李典の方から素早く張遼に和解を求め、共に轡を並べて出撃。わずか数百の歩兵で孫権軍十万を潰走させるという大活躍を見せた。 以上のように将来が嘱望される青年仕官であったが、おそらくは当時流行した流行病により、三六歳という若さで俄に没す。 途中から武官へ転向したものの、生来、儒者を敬うこと篤く、自身も大変な読書家で、また謙虚で長者の風があったといい、彼を知る誰もがその早すぎる死を悼んだという。諡して慇侯。子の李禎が跡を継いだ。 付記 魏の人間にしては、珍しく記述に混乱が見られる人物。まず没年209年とあるが、実際は215年の合肥戦でも登場している。享年36、とハッキリ書かれているので、それから逆算すると誕生は180年頃になる。となると官渡の戦いのおり、まだ10代後半かせいぜい20歳くらいの若者ということになり、前述のような活躍ができるかどうか微妙なラインでもある。 ちなみにこの李典、中国史学的には部将としてではなく豪族として名が高い。曹操が鄴を陥とした直後、李典はわが卷族三千家一万三千名を率いてその鄴へ移住した。これは当時の地方豪族と中央政府のパワーバランスを検証する上でしばしば取り上げられる「事件」なのだ。 蒼天李典 「蒼天航路」では、官渡籠城戦の最中の許都で登場。ちょうど曹仁が曹操に亀をぶつけられるシーンで、初のお披露目となった。どうやら、曹操の霹靂車(発石車)設計を補佐していたようで、曹仁のおでこの位置から発石車の射程距離を正確に割り出して見せた。 穏やかな儒将…というイメージではなく、顔に凄まじい刀痕を走らせた恐ろしげな武者ぶりである。見た目も三〇そこそこというところだろう。しかしながら、曹操と話しているときの表情は、悪戯を考える子どものように無邪気だった。徐晃あたりと仲がよさそうだ。 霹靂車のエピソードでキャラの方向性が定まったのだろう。トンデモ武具を発明・実用したり、「特殊な工法」で手早く土木建築を行う「からくり屋」として描かれている。ゲームであれば間違いなく「発明」スキルの持ち主だろう。 合肥では、張遼と個人的に対立していると言うより、楽進を含め「将軍どうしの不仲」という描かれ方をしていた。しかし孫権軍を追撃する策は事前に用意しており、「追撃するなら使うか?」張遼「使ってやろう」と妙な呼吸で連携していた。(もっとも、この追撃で楽進が重傷を負うが…) この追撃戦では、猛将甘寧を「実験台」に数々のトンデモ仕込み武器を披露し、散々に翻弄した。背中の翎子(羽根飾り)を切り取っているようだから、李典の圧勝だったようだ。 だが翌年の戦闘では、「受けた仇は必ず返す」甘寧に襲撃され、あっけなく胸元を刺し貫かれていた。 お互い、崩壊する砦の建材に巻き込まれながらの形だったため、甘寧も「生死定かならず」として武勲に数えていないようだ。実際李典はしばらく存命していたようだが、その年のうちに没し、許褚が泣きながら曹操に報告している。 生前曹操に「討ち死にだけは真っ平でござる。例え深手を負っても、這って城まで戻り、朝服に着替えて果てますぞ!」と、文人たる事に並々ならぬこだわりを見せていた。曹操もその意を汲んで、李典を将軍としてではなく、文官として葬るよう指示を出している。おそらく廟堂でも文官の列に描かれたに違いない。 彼の死後も、李典発案のトンデモ兵器は曹操軍によって運用され、特に超大型の弩(李典弩)は戦艦の主砲のごとき活躍を見せていた。また、徐晃は自身李典の仕込み武器の数々を装備し、関羽に挑んでいた。 李通(字:文達) りつう、りとう 生没:168年?~210年? 本貫:荊州江夏郡平春県 官:汝南太守 意外にも、曹操軍団随一の武勇の人とされる人物。 とはいえ、ただの武芸者ではない。若くして州一帯に名を響き渡らせる侠客であったが、数千の私兵を率いて乱世の風雲に乗じる。数県を伐り取ったところで曹操に帰順し、その部将となったおきまりのパターン。対張繍戦などで活躍している。 曹操は、とりあえず彼に汝南一帯を支配させる。ちょうどこの頃、曹・袁の対決は避けがたい情勢になっており、中原の諸勢力はどちらにつくべきか混迷を極めていた。袁紹もそれを見越して、曹操の後背部にあたる汝南諸県に様々な工作を施していたが、李通のみはそれを頑として撥ねのけ、曹操に絶賛される。当時の曹操からすれば、純軍事的な意味でも、政治的な意味でも、李通のような存在は涙が出るほど嬉しかったに違いない。 赤壁の直後、劉備・周瑜同盟軍の鮮やかなカウンターを喰らった荊州曹操軍団は、潰走に潰走を重ねて江陵要塞に逃げ込んだ。しかし主将の曹仁ともども重囲に陥り、その運命はまさに風前の灯火に。 そこへ救援に駆けつけた李通は、自ら矛を振るい、馬を下りて逆茂木を引き抜くなど凄まじく働き、周瑜の包囲網を外から突き破って曹仁軍を救出したという。 というわけで曹操軍有数の闘将として名を馳せるのだが、その征旅中にわかに病を発し、陣没。四二歳という若さであった。 諡して剛侯。子の李基が跡を継いだ。 「三国演義」ではあと数年長生きし、馬超に一撃で突き殺されるという名誉ある役目を担った。黙祷。 ちなみに名医・華佗の伝でも、彼の妻がクランケとして登場。 蒼天李通 蒼天では、謎の青年「万億」として颯爽デビュー。万億とは彼の幼名だが、成人した後も曹操たちは「万億」と呼び慣わしていたようだ。 第二次張繍戦での初登場だが、部将というより曹操の馬廻りのようなものだろうか。曹操が声を掛けると、すぐさま少部隊を率い、敵陣に突入する。「これが勝ち戦の快感かあッ!」と、なんと敵縦列をタテにぶち抜き、苦戦中の于禁隊を援護した。 官渡にも登場するが、わずかワンカット。官渡に籠もる「兵卒」として、コマの隅っこにいる。さすがに楽進・徐晃なみに兵卒スタイルが板についていた。 赤壁の戦いでは、孤軍奮闘する荀攸の応援団として登場。「周家のボンボンの好きなようにはさせん」と啖呵を切っているが、確かに荀攸が築陣した烏林一帯は、李通の故郷にほど近い。 そのためか、黄蓋の偽降の際も曹操の傍らにいた。直後に始まった火攻と、それに続く周瑜軍の猛攻撃の際は、自ら槍を振るって曹操を護衛。乱戦の中、本営まで迫る凌統と激しく打ち合っていた。 以後しばらく姿を見ないと思っていたら、サラっと「万億が病死」とセリフ中で触れられてた(´;ω;`) 劉延 りゅうえん 生没:? 本貫:? 官:東郡太守 曹操の部将。東郡の太守として袁紹との国境を守った。敵将顔良が渡河してきたときは白馬の県城に入り、防戦を指揮。寡兵よく大軍を防ぎ、曹操の援軍(関羽と張遼)が到着するまで津を守り抜いた。 車胄もそうだったが、曹操陣営には存外、こういった無名の名将がゴロゴロ。 ちなみに「三国演義」では、関羽に救われた恩義を守り、曹操の元を脱する関羽を敢えて阻止しなかったため、斬られずにすんでいる。 蒼天航路では、どうにもアゴの長い男。 顔良の猛攻に耐えかね、「曹操殿、無念でござる。この劉延にはもはや手の施しようがござらん」と呆然と呟いている。 そこへ現れた関羽と張遼の人外魔境の強さを見て、ただ「凄ぇ…」と感心だけしていた。
https://w.atwiki.jp/gukko/pages/13.html
夏侯淵(字:妙才) かこうえん蒼天夏侯淵 夏侯惇(字:元譲) かこうとん蒼天夏侯惇 華歆(字:子魚) かきん蒼天華歆 賈詡(字:文和) かく蒼天賈詡 郭嘉(字:奉孝) かくか蒼天郭嘉 夏侯淵(字:妙才) かこうえん 生没:?~219年 本貫:豫州沛国県 官:征西将軍 曹操の従弟のひとり。あるいは又従弟か。おまけに曹操の妻(どの子だろ?)の妹を娶っている。孫策・周瑜みたいなもんですな。 若い頃、曹操が故国沛県で県令相手になんかやらかして指名手配されたとき(何やったんだ…)、その身代わりになって逮捕されたことがある。後、曹操が機転を利かして救出したらしいが、このエピソードの詳細は記録になく、歴史作家たちの創作活動に生彩を与えるであろう。 また、時期は定かでないが、兗・豫州が飢饉に見舞われたとき、夏侯淵は自分の幼子の命と引き替えに、死んだ弟の娘を救ったという。これまた後の張飛夫人あたりと絡めて、色々創作のタネになりそうな話である。 さておき、彼は速戦を得手とする疾風なんちゃらに比すべき猛将であったらしい。「典軍校尉夏侯淵 三日五百(里) 六日一千(里)」という囃し歌が軍中で流行ったというから凄い。 もちろん彼が屈指の騎手ゆえに軍団が早く動けた、という訳ではない。斥候の手配、行軍計画や補給拠点の確保など、要は軍団の高速移動に必要な事務処理能力に際だって優れていたのであろう。事実、官渡の決戦の際、彼は徐州~豫州にかけての兵站ラインを維持する補給司令部を宰領しており、同じく後方総司令官である夏侯惇とともに、ガッチリと前線をサポートしていた。 ちなみに彼が典軍校尉に任じられたのは官渡から赤壁の間のことで、当時は徐州近辺の反乱制圧に奔走していたようだ。なお「典軍校尉」は、曹操が西園八校尉に任じられたときの官位。 彼の前半生の戦歴を見る限り、大戦で軍主力として働くと言うより、東へ西へ、北へ南へ、次々と勃発する反乱勢力を鎮圧して回る任が多い。もちろん反乱勢力といっても、難地の険に拠った郡レベル州レベルの大規模なものばかりで、ヘタすると劉備一党などよりもよほど強大な勢力である。そのため、「夏侯淵軍」という独立軍団ではなく、任地にあわせて徐晃や朱霊といった有力な武将を複数率い、全ての戦闘で勝利を収めていた。名選手というより名監督タイプかも。 それだけ軍政に長け、軍歴を重ねながらも、「思慮が足りん」「もっと臆病になれ」と曹操にたびたびお説教をうけており、今ひとつキャラが掴めねえ(; ・`д・´) 赤壁後は西の備えとして長安方面に赴任し、司、雍、涼三州の軍事および政治の悉くを総監した。文字通り、曹操の「分身」というべき存在であったろう。 西に駐留すること六年余。まだ曹操の威風に従わない韓遂ら関中の軍閥や、涼州の異民族を相手に連戦連勝し、魏の西辺境区を踏み固めた。漢中要塞奪取後は、そのまま対蜀方面総責任者として漢中の南鄭を居城とし、益州入りした劉備と対峙する。 西暦二一九年正月に行われた漢中西郊の定軍山の戦闘では、自ら前線に立って奮闘。しかし、劉備の猛攻に崩れ始めた張郃隊を救うため、自隊の半数を割いて寄越した瞬間、その空隙を敵将黄忠に衝かれ(他説では、逆茂木の修復作業の最中に襲撃されたとも)、討ち取られた。曹操の覇業を支えた宿将中、戦場で討ち取られた将帥は彼と張郃のみである。 諡して慇侯。長子夏侯衡が爵位を継いだ。次子夏侯覇は、後に司馬氏の専横に反発して蜀に亡命する。 その夏侯覇を迎えるための創話くさくもあるが、実は蜀の猛将・張飛の妻は夏侯淵の娘(ないし姪)であったとされる。張飛の娘二人は皇帝劉禅に嫁いでいるので、夏侯淵は曹操、劉備どちらにとっても縁戚にあたる。…というわけで、夏侯覇は蜀漢王朝の外戚として累進し、車騎将軍という軍部のナンバー3にまで昇る(「三国演義」ではその後戦死)。 蒼天夏侯淵 史実では曹操より歳下っぽいが、蒼天では「四天王」全員が曹操より年上。幼い阿瞞に屈強のイトコたちが付き従うという少年編のスタンスがそのままシフトしている。 若い頃からクールな美丈夫として描かれており、熱血一本の惇兄ィと対照的である。 「危機にあっても自在に心が動く」「天下一の弓」と評されている。そういえばいつの間にか、夏侯淵=弓将というイメージが定着しているな…。三国無双あたりからかしら。とにかくいぶし銀の匂いをプンプンさせている。常に冷静で知的、細い髭と流し目がステキ。 後に曹操に「道理を好み、無駄を憎悪している」と評されるなど、これまでの「三国志」「三国演義」などに見られる粗野な猛将というイメージとは一線を画している。むしろシステマチックな用兵思想を持つ怜悧な軍人として描かれ、実際、敵兵=進軍の障害物、敵将=名を知るのも煩わしい存在、程度に割り切って戦争をしていたようだ。 許褚いわく「あの人は狼だよ。強くてはやいけど、みんなの中で一番自分をわきまえている」 許田の狩り場では、関羽を相手に生死を賭けた勝負を繰り広げ、引き分けている。「やるじゃねえか、あの夏侯淵ってやつ」とは劉備の評。 赤壁まで特に目立つシーンはないが、廬江の叛将雷緒を討伐するあたりから、曹操から思考を切り離した「将帥・夏侯淵」としての存在感を増してゆく。はじめて「無駄」と向き合い、戦争を「政治の延長」と見、敵の将兵に「人間」を見るようになったようだ。曹操いわく「おいおい淵、気前が良すぎるぞ」 自ら望んで東方揚州の鎮撫を行った後、今度は北方并州の太原に商曜を討ち、さらに西方の馬超・韓遂討伐に従軍して、さらにそのまま遙か涼州まで西征し、羌族・韓遂連合軍にとどめを刺している。 徐晃が感心したように、夏侯淵は曹操領の外縁部を転々と移動。戦闘と行軍が連続する半生だったようだ。この間どうやら「鬼将軍」という異名がついたらしく、曹操は羌族の首領を恫喝するとき、この名を用いていたらしい。 長い西征を終えたかと思うと、今度は曹操・夏侯惇率いる漢中制圧の軍と合流する。夏侯惇が迷子になったあげく陽平関の敵要塞を自潰させている間、別同軍を率いて周辺諸郡の制圧をしていたようだ。 夏侯淵はそのまま漢中に駐留し、最後の任務となる対劉備軍団の総司令に就く。このとき任地漢中へ向かう夏侯淵と、魏国に帰還する曹操・夏侯惇軍は一瞬だけすれ違ったらしい。陣頭、迷子将軍の件でひとしきり夏侯惇をからかった後、ふたりはあわただしく別れを告げる。 夏侯惇が投げてよこした酒筒は、魏公国で醸した新酒だった。二人は鄴都での再会を約すと、それぞれの進路へ向かった…(´;ω;`) それから二年後の西暦219年、劉備軍による漢中侵攻がいよいよ本格的になり、劉備自ら漢中近郊まで軍を進めてくる。 その前年から、中間地点である巴を巡って大規模な国境紛争があったが、張郃軍が張飛軍に粉砕されるなど、前哨戦から夏侯淵軍はかなり後手に回っていたようだ。長安方面から曹洪・曹休ら救援軍を得たものの、敵軍師・法正の陽動策により戦力を次々と寸断され、局地では大勝をおさめながら、要衝陽平関を失うなど全体ではいよいよ敗色濃厚な戦況となった。 しかし夏侯淵は曹操の本軍を待たず、劉備軍との決戦を続行。定軍山の食糧基地正面で劉備を待ちかまえ、それに応じた劉備もせっかくの法正の策をぶち壊して単騎で突出。馬上会談に応じる。 劉備は最初、当然ながら夏侯淵を格下と見、彼の振る舞いを不遜と喝破した。が、互いに刃も見せず去る間際、夏侯淵がすでに「将軍以上」のものであったことに思いを致して、とうとう気づいた。「まさか曹操!てめえの家来からばかすか“王”を生もうってんじゃ…」 が、直後に法正の密命を受けていた黄忠が、空気を神スルーしつつ出現。夏侯淵の不意を衝いてすさまじい斬撃を…と思ったけど一刀で馬ごと斬り捨てられる。あらら。 劉備軍の停戦違約を受け、劉備殺害を即断した夏侯淵は、黄忠を斬り捨てた後、すぐさま反撃に転じる。迫る若い勇将魏延も同じく馬首ごと切り倒し、殺到する劉備軍を蹴散らし、逆茂木の火花で張飛を躱し、ついには劉備の面前まで辿り着く。が、剣を振りかぶった姿勢のまま、諸葛亮の指揮する弩兵隊の一斉射撃を浴びる。 全身を貫かれながらも振り下ろした剣は、劉備に弾かれ取り落とし、落馬。力尽きる。劉備は「退路をかなぐり捨てる奴は王じゃねえ」としつつも「だがこの男は確かに届いてきやがった」と満面に汗を吹き出していた。 なおも立ち上がろうとするも、追いすがった魏延に背後から一撃を加えられる。これが致命傷であったろうが、夏侯淵は恍惚の中に、まだ見ぬ魏国の銅雀台を仰ぎ見ていたようだ。幼き日の阿瞞や若き仲間達の姿、一段一段登るたびに近づいてくる乱世の終わりと彼らの信じた夢、そして鄴で再会するはずの四天王達と交わす酒杯――と、夏侯淵が最後に見る夢は、またしてもKY黄忠によって袈裟懸けにブツ斬られた。即死であろう。 黄忠は夏侯淵の首を獲ろうとするが、劉備はそれをとどめ、どころか両断した躯を縫合したうえで軽舟に乗せて、曹操へ返還したようだ。「ここに漢中の王の遺骸を返還する」と送辞を付けている。 夏侯惇(字:元譲) かこうとん 生没:?~二二〇年 本貫:豫州沛国県 官:大将軍 曹操の本当の従兄弟といわれる。曹操の実父曹嵩(夏侯嵩)の、兄の息子。もともと謹直な少年で、士大夫の子弟らしく師について学問を修めていたが、往来で師を侮辱する輩が居たため、これを斬り殺した。それが十四の頃。人々はこの少年の意外な剛直苛烈を奇としたという。 曹操の旗揚げの時から、部将として従軍。数々の戦闘に参加したようだが、詳しい戦績の記録はない。が、腹心中の腹心であったことは間違いなく、本拠地の東郡太守代行に任じられるなど、すでにナンバー2として重きをなしていたらしい。 曹操の徐州侵攻作戦時は、荀彧・程昱らと留守番をしていたが、呂布・張邈による兗州乗っ取り事件に遭い、別城にいた曹操の家族を守るために出撃。しかし運悪く呂布の本隊と遭遇してしまい、入れ違いに濮陽城を奪われ、彼自身、敵の偽降計に騙されて捕虜になってしまうという醜態をさらした。このときは幕僚らが「将軍を巻き添えにするけどスミマセン」と泣き叫びながら突撃してきたので、呂布軍の方がビビって夏侯惇を解放してしまったので事なきを得たが、このまま殺されていたら、後世の評価は180度以上逆転していたものと思われる。 この後、徐州で呂布軍に攻撃された劉備を救援するべく一軍を与えらるが、劉備軍ともども敵将「陥陣営」高順に撃ち破られる。おまけに流れ矢で左目を負傷。「三国演義」などでは「父母より頂いた物を、もったいなや!」と叫びながら、ズルリと引きずり出した眼球を食べてしまうが、繋がったままの血管とか視神経とかどうなったんだろうと想像するだけでああああああああ! 当時は基本的に「曹将軍」とか「夏侯将軍」のように姓+呼称で人を呼ぶことが多いので、夏侯惇・夏侯淵ペアなどの呼び分けは多少ややこしかったのだろう。で、ちょうど夏侯惇が隻眼となったので、軍中、必要に応じて惇の方は「盲夏侯」将軍と呼ばれるようになってしまい、内心穏やかでなかったようだ。己の顔を見るたび、鏡を叩き落とすほどナーバスになっていたようだから笑い事ではない。当時、外見上のハンディキャップ、特に肉体の欠損に対する蔑視は、今日と比較にならないであろうから、強烈なコンプレックスを持っても不思議ではない。 それでも、曹操の文字通り分身として働き、主に後方総司令に任じられる事が多かった。官渡決戦の時も、彼は荀彧とともに許都の留守府司令官という地味かつ最重要の役職を受け持っている。 しかしながら、曹操不在の許都近辺で盛んにゲリラ活動を行う劉表の部将(というか劉備)を追い回し、南陽の博望で伏兵に囲まれ散々に撃ち破られている。あらら。 戦さの手腕はともかくとして、曹操が生涯で最も信頼した分身であったことには間違いなし。夏侯淵が曹操の剣として各地を飛び回ったとすれば、夏侯惇は鎧として本営を護りきったといえる。 曹・孫痛み分けとなった217年の濡須口での戦闘の後、夏侯惇は揚州方面の総司令官に任じられ、二六軍という桁外れの大軍団を預かることとなる。数字通りならば、おそらく劉備・孫権勢力の全軍を結集しても、夏侯惇軍ひとつに及ばなかったはずだ。 「三国演義」での粗暴な猛将というイメージに反し、史伝を見る限り、彼は士卒に優しく、土木工事の時は自ら土を担いで手伝うという篤実な性質だったようだ。それでいて、夜は先生を呼んで学問に専念。謹直だった少年時代の名残りが感じられる。 曹操は、夏侯惇にだけは魏公国の官位を与えず、漢王朝の重鎮として遇したといわれる。当然魏公国の官位を得た瞬間、夏侯惇は魏公曹操にとっての「臣下」となるのだが、曹操の方がこれを嫌ったらしい。この「不臣の礼」と呼ばれる処遇は、結局夏侯惇の方から辞退されている。 曹操と同じ西暦220年、彼の後を追うように逝去。魏王朝における初代大将軍に任じられたばかりであった。諡して忠侯。子の夏侯充が跡を継いだ。 蒼天夏侯惇 「蒼天航路」では少年時代からの登場。夏侯淵らと同じく、阿瞞より十近い年長として描かれている。従弟たちを中心にしたチームのヘッドで、惇兄ィとして慕われていた。チーム名は不明。 そして李烈率いる「爆裂団」(懐かしいっ)なる巨大チームと対立していた。なんでも、夏侯惇が斬り殺した「師を侮辱した輩」が、爆裂団の一員だったらしい。それにしても爆裂団頭目の李烈なる人物、放っておけば後々、各地から群がり出た無数のプチ群雄の一人にでもなっていたかもしれない。乱世において、しばしばこういった「悪少年」と呼ばれる侠客予備軍あがりの風雲児が、徒党を組んで県レベルの武装勢力を組織し、官軍に討伐されたり英雄に帰順して歴史の表舞台に立ったりしているのだ。 その李烈上将戦死後、爆裂団をまるごと部下にしたようだ。曹操が「大上将」と呼ばれているところを見ると、夏侯惇が「上将」なのだろう。曹操はその一部を連れて洛陽へ戻っているが、夏侯惇らは故郷の譙で相変わらず切った張ったを続けていたようだ。曹嵩の葬儀の席に、後の四天王達と参列している。 黄巾の乱のおり、騎都尉として武官デビュー(といっても大佐クラスの高級将校だが)した曹操に付き従い、出陣している。爆裂団や張奐も含め、曹操の私兵集団としての従軍であろうが、官軍や義勇兵を指揮したり、事実上一軍の将として活躍している。このとき張飛の馬を殴り倒すなど、豪腕ぶりを披露した。 早く「隻眼の鬼将軍」というイメージを定着させるためだろう。董卓戦、徐栄軍の突進と無謀な正面衝突をした際、あきらかに被弾角度90度で、甲冑をも射抜く矢の直撃を受けた。 だが瞼の力と眼底の頑張りだけで脳への損傷を防いだらしい。引き抜いた眼球をゴクリと飲み込むのは「三国演義」と同じ。激高したときは血が噴き出したり、たまに小石が入り込んでカラカラいったりと、眼窩の奥はしばらく大変なことになっていたようだ。 以後、数々の戦で隻眼の鬼将軍っぷりを発揮し、「蒼天航路」では多くの戦で、曹操の傍らにあった。相対的に比較できる根拠はないが、おそらく曹操軍の中でも最強クラスの豪勇だったと思われる。 「気焔万丈 夏侯惇軍の精鋭に告ぐ!」が檄を飛ばす際の決めゼリフらしく、後に偽夏侯惇(殷署)も使用している。 官渡では、留守司令官どころか、他の将軍と同じく兵卒に降格されている。「兵卒の夏侯惇です、よろしく」。以後、その舎のリーダー格として、歩兵の中で頑張っていたようだ。おそらく史伝通り、戦闘だけでなく土木作業や雑事なんかもやっていたのだろう。 曹操曰く、「ここまで兵卒になりきり、兵卒と溶けこみ、兵卒を理解したのはお前だけだ」たしかに「同僚」の兵卒山隆と友誼らしきものを育てたりと、夏侯惇にはこういう泥臭さが似合う、兄ィ的な魅力がある。 荊州制圧後、長坂の追撃戦で、劉備と流民集団の最後尾と接触。最後衛を護る張飛に挑むが、ただただ純粋な武力の前には刃が立たず、また荀攸が軍を動かしたため水を差された。その後も民草を背に負った張飛の武の「べらぼうな清らかさ」と、民草のしたたかな強靱さに攻めるタイミングを逸してしまい、追いついた曹操に「見事な敵をめでてやるのはいい。だが、ありがたがってどうするんだ」と呆れられる。 赤壁の際は、長江下りをする曹操の代理として、荊州本城を押さえていたのであろう。孤軍奮闘する荀攸の元へ駆け付けることもできなかったようだ。 その後、濡須口の戦いや漢中の張魯討伐に参加。ちなみに西暦217年時点での愛馬の名は「飛焔」だったらしい。女を愛するように溺愛していたようだ。 漢中制圧の際は、曹操の命で先行した部隊を連れ戻しに許褚と出かけ、道に迷ったあげく張魯陣に辿り着いてしまい、恐慌状態になった敵軍を尻目に、そのまま関を奪った。まるでギャグのような話だが、れっきとした実話である。曹操や夏侯淵は「迷子の鬼将軍」と何度もからかっている。 後、荊州の曹仁救援に赴くが、関羽と戦う前に孫権の荊州奪取が成功し、関羽は敗死。合肥へ引き上げる。これが彼にとって最後の軍旅となった。「蒼天航路」では曹操より年上に描かれているため、この時点で既に70を越す老将だったはずである。 曹操曰く「勝利の後には必ず遅れ、敗北の後には必ず真っ先に駆けつける男」また、「おそろしく むさい母親」。壮大に常識を踏み外す悪ガキ曹操を、いつも叱りつける役割は、確かに保護者そのものだったのだろう。 曹操臨終のきわ、合肥に戻っているはずの夏侯惇は曹操の元へ姿を現す。道中、沛の長老(亀)を見掛け、予感を覚えたのだろう。昼夜兼行で駆けつけたに違いなく、冠も頂かず、甲冑を付けたままであった。 例によって毒づき合いながら酒を酌み交わし、末娘を嫁に呉れと云われては怒鳴りつけ、卞夫人の奏楽に聞き惚れ、いつものように笑いかけた先で、曹操は眠るように世を去っていた。 華歆(字:子魚) かきん 生没:157~231年 本貫:冀州平原郡高唐県 官:太尉 魏王朝が誇る名宰相のひとり。曹操より二つ年下。己の剛腕で政府を切り盛りするのではなく、人望と徳行によって官界を指導教育してゆくタイプだったようだ。伝説の賢相・晏子に比せられるレベル。 …が、彼の何が気にくわなかったのか、羅貫中のにフルスイングでバッシングされ、『三国志演義』においては、董卓か華歆かというくらいの極悪非道冷酷人間になっている(ノ∀`)。伏完による曹操暗殺計画が露見したときは、自ら宮中に乗り込み、伏皇后を壁から引きずり出して捕らえる。曹操の死後、劉協を脅迫して帝位を曹丕に譲らせた他、曹丕の弟たちを誅するよう進言したり、自分にとっての危険分子である司馬懿を追い落としたりと、やりたい放題。 ちなみにトンデモ三国志の横綱『反三国志』では、馬超たちに捕らえられた挙げ句、死なない程度に遠火で炙られ、生きたまま腿肉から順に喰われてゆくという、リアルタイムな食物連鎖の底辺っぷりを発揮する。 当時からして超一流の人傑だったはずだが、世語などでは妙に1.5流めいたエピソードが多い。 たとえば目の前にお金が落ちていたとして、華歆歆はチラ見してスルーするという潔癖な人物なのだが、同門の管寧という男は、そもそもお金の存在自体を無視する奇人じみた清貧教徒であったため、かえってマイナス評価となっている。他にもこれと似たようなエピソードが二、三あり、後世、管寧>>>>(超えられない壁)>>>>華歆という図式が確立してしまっている。 当時の冀州刺史王芬から政府転覆計画(若き日の許攸らが発案したアレ)をうち明けられるが、やはり誘いを受けていた曹操と全く同じ理由で参加を断る。知者は同じ道を歩む、というところか、資料の混同か。――それ以前に、この調子でみんなに声をかけていた王芬の短慮が問われるが。 後に大将軍何進によって中央官界に招かれるが、董卓の出現にビビって逃亡。 ちょうどこのあたりのエピソードで有名なのが「行き倒れ、助けたからには最後まで」事件。読んで字の如くの事件で、コレによって彼の名声はますます高まり、それに反比例して中途半端に恩情をかけた王朗の評価が下がった。。 後、荊州南陽まで逃げ延び、袁術の下で知謀を空回りさせていたところ、長安政府が人気取りのために派遣してきた慰撫団に出会い、コレに参加。しばらくは偉いさんたちと一緒に天下を行脚する。 程なくして荊南の豫章で混乱が発生し(孔明の叔父・諸葛玄が巻き込まれて死亡)、急遽それを鎮めるために豫章太守に任じられる。…が、この当時少なくとも豫章太守が三人(諸葛亮の叔父・朱儁の息子・華歆)いたことになり、余計に事態は混乱。 一年後くらいに( おそらくは劉繇の後押しを受け)ようやく豫章入りするが、今度は孫策軍の侵攻を受ける。さすがに野戦で勝ち目無しと見て、降伏。 孫策は師弟の礼をもって華歆を迎え、以後、賓客として遇されることになる。 華歆は、独特の威儀と静かな迫力を湛えていたようだ。当時江南では、彼の崩れぬさまを「華独座」と呼び慣わしていた。酒好きだが微塵も酔態を見せなかったという。 孫策の死後、曹操は華歆をゲットするべく天子に奏して詔勅まで用意して貰い、孫権に「彼をよこせ」と要請。孫権はむろん断るが、当の本人が行きたがったため、やむなく手放す羽目に。そして二度と戻ってくることはなかった(一緒に行った張絋は戻ってきたのに…)。 ちなみに、孫権討伐の軍師をのうのうとやっていたりする。孫盛が彼を毛嫌いする所以かも。 曹操陣営に帰参して後の華歆は、驚くべき早さで出世し、あっという間に荀彧に追いつき、曹丕の代には司徒、曹叡の代には太尉と、三公を歴任する。 が、どれほど栄達しても諸生時代と変わらぬ生活を貫き通した。献上された女奴隷たちに教育を施し、きちんと嫁に出してやったというエピソードもある。「潔癖だが偏狭ではなかった」という評が、何となく彼の人物を現しているような気がします。 231年、諸葛亮の北伐騒ぎのさなか(第4次)、74歳で逝去。諡は敬公。子の華表が跡を継いだ。 蒼天華歆 蒼天での登場は遅く、荊州陥落後の文官軍師ブレインストーミング時から。曹操が一目で「主戦論代表」と見抜く。 なんとも眠たそうな顔をした初老の風貌に似合わず、堂々と速戦論を展開。タコ人間杜襲と舌を競わせていた。 孫家の内情を知るものとして、「今の間に叩かないと手が付けられなくなる」という主張であった。 そのわりに孫権の躍進を伝え聞き「どうも私の覚えている(頼りない)姿と一致しない」と首を傾げているシーンがあり、孫権の器を見抜くほどの目は持っていなかったようだ。 賈詡(字:文和) かく 生没:147~223年 本貫:涼州武威郡姑臧県 官:太尉 三国時代におけるジョセフ・フーシュ。あるいは藤堂泉州。三度主君を変えながら、その智略によって重用され続け、しかも天寿を全うできたという変節の天才。しかも乱世の英雄曹操を生死の境に追いつめたこともある鬼謀の人。ちなみに曹操より八つ歳上。 若い頃、涼州の異民族の捕虜になったことがあるが、口先一つで彼らを騙し、自分ひとりだけ助かったというエピソードが。昔からそうだったのね……。とにかく、一筋縄ではいかない油断ならないヤツだったらしい。 最初は地元の董卓軍団に就職し、軍団ナンバー2であった董卓の女婿牛輔に仕えた。ところが董卓の死の混乱の中、牛輔まで殺害され軍団は空中分解。残りの李傕ら四幹部は動揺して「もう田舎に帰ろう…」と言い出す始末。それを叱咤したのが他ならぬ賈詡でした。 …そう。呂布を逐い王允を殺し貂蝉を殺し、さらなる天下大乱を招いた張本人はコイツだったのだ!!-その後、四幹部のひとり張済の軍を引き継いだ張繍に引き抜かれ、彼の軍師として活躍する。曹操を窮地に陥れ、彼の長子曹昂や猛将典韋を討ったのも、すべて彼の計略。 しかしながら袁紹と曹操の対立が激化すると、独断で曹操への帰順をきめ、張繍を慌てさせた。 曹操に仕えて後、たびたび献策し、強敵韓遂・馬超を敗走させるなど、相変わらずの鬼謀を発揮するが、曹操の死と前後して引退。以後、門を閉じ廷臣たちとの交流を避けた。彼一流の保身術ですな。 享年77歳。諡して粛侯。 蒼天賈詡 蒼天での賈詡、カッコよすぎ。なんか、いつも猛禽(鷲か、鳶か?)を片腕に止まらせて、ニヒルに笑うダークサイド。「曹操は自らの才に飽きている」ってセリフが印象的。 のわりに、作中で最も絶叫するシーンの多いキャラでもあり、泣いたり笑ったり怒ったりと、とにかく最後まで曹操の身辺にあって、ひたすら振り回されつづける役割を負った。ある意味読者の代理的な存在であったと言えなくもない。 が、登場初期においては「天下を奪うには三人を殺すだけでよい」とうそぶく野心家。おそらく奇術師めいた天下奪りのプランが、既に胸中にあったのだろう。張繍をマリオネットのように操り、曹操を誘殺する罠を設定し、たびたびその生命を脅かす鬼謀ぶりを発揮する。 が、時勢の流れを読み、袁紹との大戦を前に曹操に降伏。以後、そのブレーン集団に名を連ねることとなる。彼らとは一歩ひいて斜に構えていて、他の軍師グループとは仲が悪い…。蒼天では、彼らより一等上の描かれ方をしており不満に思う人も多かったと思われる(特に荀彧・郭嘉ファン)。でも、「極めつけの死地にはやはりおまえだ!」と烏巣襲撃チームに指名された賈詡も気の毒かも。 で、その烏巣では曹操とともに上を下への大逃走劇を演じる。そのハチャメチャな戦さのなかで、(曹操殿、この賈詡を殿の臣下としてお認めいただけますか!)と胸中に叫ぶあたり、どうしても外様意識が抜けきらなかったのだろうか。 作中、突進してきた猛将淳于瓊を抜き打ちに斬り捨てるという意外なシーンが。 かくのごとく残忍で、狡猾で、鉄鋼ワイヤーのような神経を持つと思われていた彼だが、長坂から赤壁にかけては、意外に脆い一面を剥き出しにすることもあった。 長坂の追撃戦では、旧主張繍が討ち取られた後、彼らしからぬ動揺を見せ、それに気づき自ら愕然としていた。長いこと女房役を勤めてきただけあって、彼も自覚しないうちに、あの無邪気で頼りない張繍にどこかで依存していた面があったのだろう。 さらに赤壁の手前の「長江下り」では、有るはずのない孫権の攻撃(※おそらく諸葛亮のトリック)に動転したか、絶対的な窮地に陥り、自らの知謀に絶望した挙げ句、全軍に降伏を命じてしまう。「郭嘉…郭嘉よ…」と、まさかの郭嘉コールに驚いた読者も多いはず。 が、幸か不幸か(?)敵将黄蓋は「白旗に気付かず」攻撃を続行。降った端から射殺されてゆくに及び、賈詡は思考停止に逃げる……かと思いきや、無意識のうちに逃げ延びる策を練り続ける。許褚の活躍、瀕死の曹操とともに死地を逃れた賈詡は、水中で発案したという「暗黒の策」を実行に移した。 で、そもそもこの「暗黒の策」とは…? 「蒼天孔明のキャラ」と「赤壁のオチ」の中間に位置する「暗黒の策」。 策自体は、要するに敵味方へ「曹操死す」という情報を流して「曹操の居ない天下」を局地的に幻出し、敵方首脳の動揺を誘うというものであったが、いまひとつメリットがわかんにゃい。敵主将を討ち取ったことで呉軍の士気は上がるだろうし、味方の士気は地の底まで落ちる。 実際、蒼天周瑜は賈詡らが考えているより数段上の位置にいる人物だったようで、彼が翻弄されていた期間はわずかなものであった(曹操生還の報で見せた動揺を見る限り、確実にダメージは蓄積していたようだけど)。味方にしても、荀攸の堅固無比な指揮統率がなければとうの昔に崩壊していてもおかしくはない。 が、曹操の生還によって「暗黒の策」は全容さえ明らかにされぬままに中断。烏林での総指揮は、ふたたび曹操が執るようになる。 直後、敵将・黄蓋より内通の書状が届くが、呆れたことに真っ先にそれを信じたのは賈詡であった。さすがに偽降の可能性も考慮に入れていたが、まだ自分の暗黒の策にハマっていたらしい。 そんなこんなで、結局赤壁の要塞は、黄蓋の火攻なぞどうでもいいようなナゾの天変地異によって、地殻ごと爆発・炎上。曹操軍は総崩れとなる。…結局、暗黒の策って何だったんだ…。 蒼天の赤壁は、賈詡に始まり賈詡に終わった。残されたのは、魏軍数万の遺棄死体と、烏林・赤壁の焼け跡と、作品の行方を見失ったガチ史系ファンと、「そもそも賈詡はいつからハゲてたんだろう」というどうでもいい疑問だけであった。 赤壁の一件後も、特に変わらず曹操の身辺で知謀を発揮し、特に西方平定では総参謀を務める。これは彼が涼・雍の地勢人脈に詳しいから――ではなく、単に「未知の戦場はワクワクするだろう!?」という曹操の子供じみた遊びの誘いのようなものであった。 馬超の想像以上の武勇に、一時ギリギリきわどいシーンもあったものの、戦況はおおむね賈詡の描いたとおりに進行し、賈詡が予告した通りの結末をたどった。 関中平定後、こんどは対劉備戦線でも軍師として活躍するが、蜀の新軍師・法正に序盤で先手先手を打たれ、そのフォローに追われているあいだに、漢中戦役が終了してしまい、彼にしてみれば不本意な戦であっただろう。 郭嘉(字:奉孝) かくか 生没:170(?)~207年(?) 本貫:豫州潁川郡陽県 官:司空府軍祭酒 誰が何と言おうと、この人が曹操の筆頭軍師である! と心の底から叫ぶ人も少なくない。演義でのイメージは半ば神がかった薄命の天才軍師であり、「嗚呼、奉孝さえ生きていれば」と歯ぎしりする魏派のうめき声が。 なれどどうしてどうして、蒼天では見事に「その他大勢」と化し、かろうじて「ふんぞり返って偉そうに喚く」事でキャラを立ててました。このままひっそり死んじゃったらどうしようかと、本気で心配しました。 若い頃、ごく一部の識者から麒麟児と目されていたが、本人は知らぬ風でアウトローを決め込んでいたみたい。ぶらりと放浪し各地の豪傑や賢者たちと交流していたというから、なんか流離いの軍師徐庶を彷彿とさせる。ちなみに女好きの伊達男説も存在し、事実、その不品行を清流名士の陳羣に咎められている(蒼天では程昱)。 最初袁紹に仕えようとしたが、後に荀彧の推挙で曹操に鞍替えする。それにしても郭嘉の前任軍師である戯志才って、どんなヤツだったんでしょうねえ? 当代随一の謀臣として曹操に度々献策し、ことごとくを的中させる。通史として「三国志」を知っている我々からすればピンとこないかもしれないが、郭嘉の時勢眼はほとんど予言の域にあったと言ってよく、孫策が「匹夫の手に掛かる」ことまで予想している。 結局は郭嘉の予言したシナリオ通りに歴史は回転し、曹操は広大な河北を抑えることが叶う。それを見届けるように、郭嘉は38年という若すぎる生涯を閉じる。 諡して貞侯。子の郭亦(←蒼天で夫人が抱いていた赤ちゃんかな)が跡を継いだ。 曹操は郭嘉を次世代政権の導き手と目していたようで、ブレーン集団の中で最年少だった彼の死をことのほか嘆いた(ちなみにこの時点で荀彧45歳、荀攸51歳、曹操53歳、賈詡61歳、程昱67歳。)。 彼の死からわずか1年後、赤壁の戦に敗退した曹操は「郭嘉が生きておれば…」と悲嘆したことは有名。 蒼天郭嘉 蒼天では、袁紹に招かれたところから登場。さんざん袁紹を侮辱したあげく、殺されそうになるや「董卓の下に名を残しますぞ!」と逆に恐喝し、飄飄と去ってゆく……。とにかく印象的な瞳でした。 次に、荀彧の推挙という形で曹操の元へ出現。が、早々に要らんことを言って獄へブチ込まれる。 獄中の悪態ついでに曹操の天下取りを論じたてるなど、言いたいことを言えれば自分の身命などどうでもよいらしい。 正式に登用された後は、兗州奪還戦などで活躍。「(二万に)五百で勝つ軍師はおまえだ!」と曹操に指名される。 しかしながらその後、荀攸や賈詡の登場により本来の凄味がなくなり、ついには「腰巾着」呼ばわりまで……。 このままフェードアウトするのかと思いきや、曹操の北伐行に従軍するあたりから、異様なオーラを発するようになる。 他の軍師たちが、そろそろ国家の重鎮として戦場から遠ざかる中、ただひとり「純粋軍師」として戦場に在り続けた(この表現って、呂布の「純一戦士」と対極なのだろうか)。政治や党閥の動きなどにはいっさい目をくれず、ただひたすら戦場での知的活動に耽溺する……。晩年の郭嘉は、確かに呂布に似た「哀しさ」がありました。 彼にとって最後の戦闘となる烏丸討伐戦では、張遼とともに快速の騎馬軍団を率いて暴れ回り、その「目」で烏丸王頓を視認。王の用兵を完膚無きまでに撃ち破った。しかしながら、この頃すでに、彼の貌には明らかな死相が浮かんでいた(曹操が視線を逸らし「……しばらくこの地に居座るぞ」と呟いた場面で、はっとした人も多いハズ)。それでもなお、遼東公孫氏の帰順と袁兄弟の自滅を予測するなど、謀臣としての活動は休みを知らない。 そればかりか、郭嘉は烏丸民族と張遼を無期限に貸してくれと曹操に頼んでいる。彼が政治を考えるとき、その思考は一臣下の域を軽く超越し、王の領域にまで達したのでしょう。「俺の臣下から王が誕生するのだ」と曹操ははしゃぐが、郭嘉の容態は日に日に悪くなってゆく。 やがて立つこともできないほどに体力を失った郭嘉は、曹操や仲間たちの見守るなか、最後の吐血をし、息を引き取った。死のその瞬間まで、「純粋軍師」郭嘉は次なる南征に用いるべき秘計を案じていたらしい。
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/4584.html
前ページ次ページ割れぬなら…… レコン・キスタの乱から一ヶ月。 トリステイン魔法学園に、ドスドスと漫画のような擬音と共に廊下を歩く一人の少女が居た。 少女……ルイズは不機嫌だった。 曹操がこの一ヶ月の間一度も姿を見せないからだ。 やれ遠乗りだ、鷹狩りだ、喧嘩だ、泥棒だといって、曹操はあまりルイズと一緒に居る事は少なかった。 少なかったが……流石に一ヶ月も帰らないなんていう事は初めての事だった。 「あらルイズ、ちょうど良かったわ」 角を曲がると、正面にキュルケの姿があった。 ちょうど良かった、こっちも聞きたい事がある。 時々、曹操はルイズを放っておいてキュルケとイチャついていた。 他にもメイドと遠乗りに出かけたり、厨房で鍋を振るっていたり、タバサと本を読んでいたり…… なんだか、さっきよりも眉間に力が入ったような気がした。 ルイズはイラついた感情をそのままに曹操の居場所を尋ねる。 「ソウソウが」「ダーリンが」 ルイズはさらに不機嫌に、キュルケは急にニヤニヤし始めた。 「あらぁ? とうとうルイズもダーリン争奪戦に参戦するつもりだったのかしら?」 「違うわよ!! ご主人さまに連絡も寄越さない駄犬にお灸をすえたいだけ。キュルケみたいな万年発情期とは違うの!」 ガーーーッ、とルイズは野獣のように吠えてみせる。 正直、あまり怖くない。 「連絡も寄越さない? あらあら……ダーリンも罪な人ねぇ。こんなにも恋慕している女を焦らさせるなんて」 「してないったら!」 心底癪に障るキュルケのニヤケ顔を見て、ルイズは自分が敵の術中に堕ちている事を悟る。 深呼吸……少しはマシになった。 とっとと用件だけを聞いてどこかへ行ってしまおう。 「ソウソウはどこ? 知ってるんでしょ?」 「今のダーリン、結構な有名人なのよ。王都じゃ知らない人なんて居ないんだから」 「……で、ソウソウはどこ?」 もうからかえないかと、キュルケは少しふて腐れるも、観念して自分の知っている事を話した。 「何日も前から王都北門警備隊長に任命されて、今だって職務に励んでいる筈よ」 「王都北門警備隊長?」 「それでね、一昨日にデュラン・ド・ラーケン伯爵とかいう人を殴り殺したとかいう噂よ」 「ラーケン伯爵を殴り殺したですってぇ!?」 ……その日ルイズは、人間が驚愕で気を失える事を知った。 例の任務の報告を聞いたアンリエッタは、涙を浮かべて歓喜した。 ……報酬は無いも同然だったが、密命なので仕方がない。(それはルイズも気にしていない) それよりも彼女にとっては、ゲルマニア皇帝との婚約が解消された事の方が嬉しかった。 なにしろ、婚約の元凶だった反乱軍が空中分解してしまったのだ。 ゲルマニアの機嫌がほんの少~~~し悪くなるだろうが、たぶん大丈夫だろう。 前回曹操と主従の間柄となったワルドは、そのまま何事も無かったかのようにアンリエッタの元へ戻った。 内通の件がトリステイン本国に伝わる可能性は依然として高かったが、 その時は「戦争に流言はつきものです」とでも言い張るつもりだった。 後日、妙に具体的な内容のワルド内通説がトリステインに流れるのだが、アンリエッタ女王はその噂を真っ向から否定する。 ……まあ、そんな事はどうでもいい。 曹操の話をしよう。 レコン・キスタの乱が終結してみると、曹操の名はハルゲニア全土に広まった。 あの日曹操が全軍に与えた衝撃はそう簡単に忘れ去れるものではなく、 またアルビオン軍が反攻作戦に際して、大々的に曹操の名を宣伝した事もその原因の一つである。 (なお、曹操がルイズの使い魔である事を知る者はごく僅かである。 おそらくはアルビオン軍が意図的にその事実を隠して宣伝したのが理由であろう) さらにマスメディアの無いこの時代の噂には、必ず尾ひれがつくものである。 その尾ひれの内訳は……あまりにもバカバカしいので割愛するが、 とにかくハルゲニア全土、特にアルビオン国内に多数の曹操信望者が生まれたのだ。 ……ただし、逆に曹操を危険視する者も数多く現われ、それが原因で後で苦労する事になる。 その意味では、曹操の風評こそがルイズにとって生涯の敵であったと言えるのだが……それは後々の話である。 曹操はその風評とワルドからの推薦を使い、王都北門警備隊長の職を得た。 爵位を持つ者達から見れば、ハッキリ言って下っ端役人である。 ワルドは「もっと上の位にも就けたのだがね」と、不思議がっていたが、 曹操は何故かこの官職を望んだ。 いろいろな紆余曲折の後、王都北門警備隊長に就任した曹操はすぐに行動を開始した。 『北部城内 夜中禁足 門中沈々 下馬禁刀 騒者打擲』 訳……王都北門は夜中は通行禁止です。 門を通る際は騒がしくしてはならず、また武器を抜いてはいけません。 場内で騒ぎを起こした者は棒打ちの刑に処されます。 王都の北部にある全ての城門に、上のような内容の立札が立てられた。 そして数日もしない内に宮中で少なからず発言権を持っていたラーケン伯爵が殴り殺されたのだ。 犯人はわかっている。曹操だ。 原因もわかっている。ラーケンが真夜中に城門を押し通ろうとした事だ。 宮中は大騒ぎになった。 罷免どころか処刑されかねない状況だったが、ワルドやアンリエッタが彼を庇った。 王都の民も大騒ぎをした。 多くの者が王国の権威を笠に威張り散らしていたラーケンを疎ましく感じており、 そういう者達は曹操に喝采を送った。 貴族さえも簡単に殴り殺すのでは、魔法の使えない平民はもっと簡単に殺すだろうと恐れた者もいた。 情けなく命乞いをするラーケンの姿を芝居仕立てにして上演する者まで現れた。 (もちろん、名前や時代などは適当に変えてある) 曹操はアルビオンを救った英雄の風評に加えて、北門の鬼隊長の風評も得たのだ。 そんな大騒ぎの中でも曹操は、顔色一つ変える事無く黙々と職務を遂行していた。 彼の元に桃髪の少女が怒鳴り込んできたのは、ある晴れた日の早朝の事だ。 前ページ次ページ割れぬなら……
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/3212.html
登録日:2010/03/13 Sat 21 53 56 更新日:2024/03/04 Mon 10 30 56 所要時間:約 4 分で読めます ▽タグ一覧 ターニングポイント レッドクリフ 三国志 世界史 中国史 呉 歴史 真・三國無双 蜀 赤壁の戦い 魏 赤壁の戦いとは208年に、現在の湖北省赤壁において曹操軍と孫権・劉備連合軍との間に起こった戦いで、官渡の戦いを超える三国志史上最も有名な戦い。 経緯 事の発端は7月の曹操軍の南征から始まる。 目標は荊州を治めていた劉表及びその庇護下の劉備であったが、 劉表は曹操の到達前に病死、彼の息子はすぐさま降伏し、劉備は長坂にて必死の逃避行の末、魯粛と会見し、夏口に布陣。 孫権陣営は当初帰順しようという意見が多数であったが、周瑜と魯粛が説き伏せ、孫権の決断の後、 劉備の使者である諸葛亮との間に同盟を結ぶ。 曹操軍もおよそ十五万とされる兵と荊州で得た水軍を率い、長江を下ってゆく。 戦闘 両軍は赤壁にて激突、緒戦は疫病に苦しむ曹操軍が敗北する。曹操軍は後退し烏林に布陣。 両軍は睨み合いを続けたが、曹操軍の船と船が密着していることに気づいた黄蓋が偽降の計を用い、 自らが降伏するように見せかけ、その間隙をついて火を放ち、散々に打ち破ることに成功する。 陣営まで火は届き、大量の人や馬が焼死及び溺死する。 曹操軍は這々の体で敗走し、周瑜と劉備は曹操軍を追撃、孫権も合肥を伺うが、合肥を救援に向かった蒋済の計により、孫権は包囲を解いて本拠に戻る。 それでも追撃の手は南郡まで及び、江陵を守備する曹仁と周瑜、劉備の軍は対峙。 夷陵を甘寧が数百で奪取したり、曹仁がそれに五千近くの兵を送ったり、周瑜が自ら甘寧を救援したりして夷陵を支配下に置く。 その後周瑜は曹仁の副将の牛金を包囲するが、曹仁がなんと数十名でこの包囲網を撃破し牛金を救出、 更に周瑜に矢傷を負わせるが、ついに包囲されてしまい、補給路の北道も関羽に封鎖されてしまう。 必死に堅守する曹仁だったが既に戦闘開始から一年が経過していた故に疲弊・困窮してしまったが、 誰かが封鎖していた筈の北道から李通の救援軍が包囲網を破ったため、曹仁はなんとか江陵から脱出出来た。 そのまま周瑜は南郡を、劉備は荊州南部四郡を平定することに成功。 これで一通り赤壁から起こった一連の戦は一応の決着を見る。 所で、諸葛亮の名前がほとんど出なかった事が気になった人が居るだろうが、 正史にて明らかになっている彼の動向は「劉備と孫権の同盟を取り付けた」ぐらいであり、史書の彼の伝では赤壁について「曹操は赤壁にて敗北し、兵を引いた」としか書かれて居ないのである。 つまりは赤壁戦時における孔明の動向は現実では空白になっているがため、大活躍した…というのは創作以外の何者でもないということになっている。 考察 何故起こったか、であろう。 ●何故、曹操は長江を下り、周瑜は長江を遡ったのか 恐らく中国史における大きな謎の一つであろうと考えられる。 曹操の性格、今までの戦歴からして、江陵を落とし荊州を平定し、劉備を追い払った、 これで普通は魏の南征を終結させたはずである。残った孫権らは大した力はなく、後でじわじわ締め付ければそれでよかった。それを、わざわざ大軍を率いて長江を下り孫権討伐をする理由がわからない。 中原と河北を制した曹操の慢心、というのは思考停止以外の何物でもあるまい。 良く言われるのは、戦の発端が曹操の脅迫文であったこと。 しかしこいつの出典は孫呉を賛美する『江表伝』であり、内容が明らかにおかしい為に正史に採用されていないのだが、 他に曹操の侵攻を説明する目処が無いのである。 孫権の項でも触れられているが、ここにも文を載せようと思う。 『近く勅命を奉じ罪人を討つべくして南に軍旗を向けたが、 荊州は抵抗することもなく降伏をした これより水軍八十万を率いてゆく 呉の地にて孫将軍と共に狩りをしようではないか』 この文章の突っ込み所は四つ。 まず八十万というのは各地の曹操軍全てをかき集めた兵数であり、先ず現実的では無い(*1) そもそも荊州攻めには皇帝の勅命を奉じている訳で無いし、当時の孫権の所在地は呉ではない。 更にこの文が発され受け取った時から両軍が進発しても、長江赤壁にて衝突しない筈なのである。 が、他に理由とできるものも見つからず、演義を始めとした創作物はこれを脚色し、様々な赤壁像を作り上げている。 そもそも「赤壁の場所」自体が正確に判明しておらず、近年では史実上の存在を疑問視する歴学者もいる始末。 戦の結果 赤壁の戦いの意義として、大きくは3つ。 ●孫呉政権が曹操打倒の可能性を見いだす 孫呉は豪族の寄り合い勢力であり、彼らがバラバラであればどうしようも無いのだが、 赤壁での勝利により曹操を倒すということが現実的なものとなり、呉郡豪族が一丸となるきっかけを生み出した。 ●劉備が足掛かりとなる土地を得る 曹操の勢いが完全に止まったスキに、劉備は徐州以来であった領土をついに得た。そこが隣接する益州・巴蜀の地を盗る足掛かりとなっていく。 ●曹操の中華統一の頓挫 破竹の勢いにて中原と河北を統一し、残すのは僅かと思われた曹操が赤壁で喫した敗北は痛恨の極みであった。 この後も、勢いづいた孫権、劉備の両陣営には濡須口や漢中にて苦しめられることになり、ついに曹操一代では天下に手が届かなくなってしまった。 上記三点から、三国志の帰趨を大きく分けた戦いであるのは間違い無い、と思われる。 追記、修正宜しくお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 実際の所正史で何が起こったのかよく分からない 曹操軍側が疫病の被害が大きくて、最終的に退いたのは本当ぽいがそれ以外がな -- 名無しさん (2014-09-13 23 47 56) カクは「江陵で徳を垂れていれば相手は自然と下ってくるでしょう」と東呉の自滅を促すよう献策したのに、曹操は江陵に大軍を駐屯させ相手を威圧するより南下を選んだ。これによってバラバラだった東呉は逆に一枚岩になってしまい曹操は敗れる。江陵では蜀の使者張松を軽んじて劉備のところに行かせてしまっているし、曹操もこのときはヤキが回っていたと見ていいだろう。 -- 名無しさん (2014-09-29 07 51 56) 蒼天航路の解釈はおもしろかったわ -- 名無し (2014-11-06 22 14 38) ↑2当時曹操は既に53歳と(当時としては)高齢の域に達していた。 自分が生きている内に乱世を集結させたいという焦りがあったんじゃないかな。 -- 名無しさん (2016-04-03 13 40 52) 乱世を終結させたいなんて考えてたかなぁ…中国は勝ったときに成果を水増し、負けた時に相手を強大に書いて「負けてもしょうがなかったんです!」とやる悪癖があるから80万は大嘘だろうと思うけどぶっちゃけ呉なんか獲ってもうまみが少ないし統治のごたごた抱えた状態で代替わりするよりは内政を充実させるんじゃないかな。まぁただの妄想だけどね -- 名無しさん (2016-10-04 10 14 32) 実兵力は本文にもあるように十数万だろうと言われてる。後方部隊や荊州駐屯軍など合わせても30万を超えたかは疑問。向こうは「号して百万」みたいに、威圧なんかの目的で実数の数倍くらいは平気でふかすが、それでも十万超えは確かだろう。 -- 名無しさん (2016-10-04 10 21 15) 三国無双のせいか前半のターニングポイントっていうイメージが自分の中でできてしまった。後半のターニングポイントは樊城…どっちも中国の真ん中ら辺の戦いのような気がした -- 名無しさん (2016-10-04 10 44 18) 確かに表立って楯突いたのはこの戦いに際してだけど、孫家は歴然とした独立勢力としての力を持ってたんだから武力にせよ外交による臣従にせよ一度はっきりとした形で屈服させないと天下統一とは言えないだろう。時期がもう少し前後する可能性はあったが、お互いどのみち避けられなかった戦いだと思う -- 名無しさん (2017-04-05 16 03 35) ちょっと修正したよ -- 名無しさん (2017-11-28 13 29 58) 「世界史における」って大げさやろ。三国志、せめて中国史にしときなさいよ -- 名無しさん (2017-11-28 14 02 59) これ「筆者の考え」がモロに書かれてるけど、こういうのってアニヲタwikiで許されてたっけ -- 名無しさん (2017-11-28 16 59 34) 三國無双では龐統先生や諸葛亮先生の小細工(前者は曹操軍の船を固定、後者は言わずもがな、東南の風)も勝利に貢献していたけど…… -- 名無しさん (2018-05-15 19 18 50) 最近妖怪ウォッチのゲームCM見て今更ながらに気づいたんだが敵から矢を得る計略って火矢を撃たれたら破綻するよな。演技はやっぱり戦争素人が書いたファンタジーだったんだな -- 名無しさん (2018-07-01 18 59 32) 河北省じゃなくて湖北省だろ? -- 名無しさん (2018-07-01 19 01 15) 孔明 -- 名無しさん (2019-06-22 02 25 33) どこぞの漫画といい、ここといい、さらに言えば演義すら周瑜のしゅの字すらない武帝紀において赤壁で主体的に戦ったとされる劉備の動きを軽視してるんだよね… -- 名無しさん (2019-06-22 02 29 45) 勝手な妄想だけどここでの大敗がなかったなら曹操1代での中華統一はギリギリ間に合ったんじゃないかなと思う -- 名無しさん (2021-09-12 09 07 16) これが曹操の若い頃だったら仮にあんな大敗をやらかしても何とか天下統一には間に合ったかもしれないな。中年になってからの戦いだったから天下統一の前に自分の寿命が来ちゃったって感じ -- 名無しさん (2022-12-18 18 07 39) 正直戦があったかすら怪しいけど、曹操の南征を頓挫させる軍事的大失敗自体は多分確実にあったぽいのがややこしいところ -- 名無しさん (2023-01-12 19 18 15) 官渡と夷陵の時はそれぞれ敗れた袁紹と劉備が2人とも敗戦のショックで病死しちゃったけど赤壁では曹操はこれだけの大敗を喫したのに生き延びた事から彼の「天下統一するまでは決して死なぬぞ」といった凄まじい執念を感じる -- 名無しさん (2023-01-14 11 08 43) もし赤壁の戦いをモチーフとした作品が大ブームを引き起こして「今、赤壁が熱い!」とか紹介されたら「曹操軍兄貴成仏してクレメンス」とかネタにされるんだろうか……。 -- 名無しさん (2023-01-22 17 45 09) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/45.html
194年 興平元年(漢) 皇帝 劉協(漢献帝) 皇后 (空位) 皇太子 (空位) 三公 太傅:馬日磾(前太尉・録尚書事・192~194)→(死亡)→(空席) 太尉:朱儁(前太僕・193~194)→楊彪(前太常・194~196) 司徒:淳于嘉(前司空・192~194)→趙温(前衛尉・194~208) 司空:張喜(前衛尉・193~196) その他の要職 録尚書事: ■馬日磾(太傅・192~194)→(死亡)→? ■朱儁(太尉・193~194)→楊彪(太尉・194~196) ■趙温(司徒・194~?) 太常:楊彪→ 光禄勳:→ 衛尉:趙温→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍: 驃騎将軍: 車騎将軍: 衛将軍: 地方官 司隷校尉:? 冀州牧:袁紹(191~202) 幽州牧:? 并州牧:? 青州:? 豫州刺史:郭貢《後漢書鄭孔荀列伝荀彧》 兗州牧:曹操(前東郡太守) 徐州牧:陶謙(~194)→(死亡)→劉備(194~) 河南尹:駱業《後漢書皇后紀靈思何皇后》 荊州牧:劉表(192~208) 涼州:? 揚州:? 益州:? 交州:? 廱州:? 主な事件 興平元年春正月辛酉、天下に大赦する《後漢書孝献帝紀》 興平に改元する《後漢書孝献帝紀》 帝元服する《後漢書孝献帝紀》有司は長秋宮を立てるべきと奏上する。《後漢書皇后紀靈思何皇后》 興平元年春、曹操は徐州から帰還する。初め。曹操の父の曹嵩は退官後譙に帰っていたが董卓の亂を避けて瑯邪に避難していた。陶謙のために害され、故に曹操は復讎の志をもって東伐に向かっていた。《三国志魏書武帝紀操》曹嵩は泰山の華縣にあった。曹操は泰山太守の應劭に迎えて兗州に送り届けるよう命じた。応劭の兵がいまだ至る前に、陶謙は密かに數千騎を遣わして掩捕せんとした。曹嵩は応劭を待っていて備えを設けていなかった。陶謙の兵が至たり、曹操の弟の曹德を門の中で殺す。曹嵩は懼れて後ろの垣を穿ち、先に妾を出そうとしたが妾が肥えていて出られなかった。曹嵩は廁に逃げたが妾とともに害された。闔門は皆死んだ。応劭は懼れて官を棄てて袁紹のもとに行った。後に曹操が冀州を平定した時、応劭はすでに死んでいた。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》曹操は曹嵩を迎えた。輜重は百餘兩だった。陶謙は都尉の張闓に騎二百を率いさせて遣わし送った。張闓は泰山の華において嵩を殺し財物を奪い、淮南に出奔した。曹操は咎を陶謙に帰し征伐する。《三国志魏書武帝紀操に引く韋曜吳書》 二月壬午、皇妣の王氏を霊懐皇后と諡し追尊する。甲申、文昭陵に改葬する。《後漢書孝献帝紀》有司は追尊して王美人を靈懷皇后とするよう奏上した。文昭陵に改葬し、儀礼は敬・恭の二陵に比し、光禄大夫に節を持たせ行司空事が璽綬を奉った。王美人の兄の王斌と河南尹の駱業が復土した。《後漢書皇后紀靈思何皇后》 丁亥、帝は藉田を耕す《後漢書孝献帝紀》 三月、韓遂、馬騰は郭汜、樊稠と長平観で戦い、敗れる。左中郎将の劉範、前の益州刺史[ネ中]劭は戦没《後漢書孝献帝紀》注に引く、前書音義に、長平は阪の名前にて、池陽宮にある。長安とは約50里の距離がある。また注に引く、袁宏紀によれば、このとき馬騰は李確*等が専乱を行っているとして、宗室の大臣である劉焉に使者を遣わした。劉焉は子の劉範に将兵を授けて馬騰に就かす。故涼州刺史の[ネ中]劭は太常の[ネ中]弗の子で、[ネ中]弗は李確*に害されたので仇に報いんと参加した。《後漢書孝献帝紀》 夏六月丙子、涼州の黄河以西四郡(金城郡・酒泉郡・敦煌郡・張掖郡)を分けて廱州を作る《後漢書孝献帝紀》 丁丑、地震《後漢書孝献帝紀》 戊寅、また地震《後漢書孝献帝紀》 乙巳晦、日食あり。皇帝は正殿を避け、聴事を五日間行わなかった《後漢書孝献帝紀》 大いに蝗《後漢書孝献帝紀》 夏、曹操は荀彧、程昱を遣わして鄄城を守る。再び陶謙を討つ。五城を抜き、遂に東海に至る。郯を過ぎて還るとき陶謙の將の曹豹と劉備が郯の東に駐屯しているのを撃ち破る。遂に襄賁を攻拔する。通過したところの多くで殘戮する。《三国志魏書武帝紀操》 張邈は陳宮とともに呂布を迎えて曹操に叛いた。兗州の郡縣は皆応じた。荀彧、程昱は鄄城を保ち、范、東阿の二縣も固守した。曹操は軍を引き返した。呂布は鄄城を攻めたが落せず西進して濮陽に駐屯した。曹操は進軍して攻めた。呂布も兵を出して戰う。先陣の騎兵が青州兵を撹乱し青州兵は逃走した。曹操の陣は亂れた。曹操は馳突で火が出て馬を落ち左手掌を火傷した。司馬の樓異が曹操を助けて馬に乗せ退去した。軍営に曹操が戻ってこないので諸將は浮き足立ったが、曹操は軍を労り、軍中に令して攻める用意を整え、進軍して再び攻撃した。呂布と対峙すること百餘日。蝗蟲が起こり百姓は大いに飢え、呂布の糧食もまた乏しく各々引去する。《三国志魏書武帝紀操》曹操が濮陽を囲んだ時、濮陽の大姓である田氏が寝返ると聞いて、曹操は城内に入ることが出来た。しかし東門が焼かれ、寝返りが嘘だということがわかり、軍は敗れた。呂布の騎兵が曹操と遭遇したがそれが曹操だと分からず、「曹操はどこか?」と聞いた。曹操は「黃馬に乗っているあのものです」と答え難を逃れた。門の火は勢い盛んで曹操は火を突いて脱出した《三国志魏書武帝紀操に引く袁暐獻帝春秋》太祖は陶謙を征伐した際、領東郡太守の惇を留めて濮陽を守らせる。張邈は呂布を迎えてて叛き、太祖の家族は鄄城にあったので惇は輕軍をもって往赴する。途中呂布と遭遇し交戰する。呂布は退き、濮陽に入る。襲得惇軍輜重.遣將偽降,共執持惇,責以寶貨,惇軍中震恐.惇將韓浩乃勒兵屯惇營門,召軍吏諸將,皆案甲當部不得動,諸營乃定.遂詣惇所《三国志魏書諸夏侯曹傳》 秋七月壬子、太尉朱儁が免じられる《後漢書孝献帝紀》 戊午、太常の楊彪を太尉・録尚書事と為す《後漢書孝献帝紀》 四月から七月に至るまで三輔では大旱魃《後漢書孝献帝紀》 皇帝は正殿を避けて雨乞いをし、使者を囚徒に遣わして蕩滌させ、刑を軽くした《後漢書孝献帝紀》、 このとき穀1斛50万、豆麦1斛20万銭と為り、人相食み白骨は積もるに任された。皇帝は侍御史の侯汶を遣わして、太倉の米豆を出させ、飢えた人に粥を作った。日を経ても死者が減らなかった。皇帝は疑って、親しく御座前で粥作りを試みさせ、真実を悟った。これによって尚書令以下省閣に出て謝し、侯汶を捕らえて考査を奏した。詔に曰く、「侯汶を裁くに忍びず、杖打ち50とすべし」と。これ以後全てに徹底され得るもの多かった。袁宏紀によれば、侍中の劉艾は米豆5升で粥を作って盂3杯を満たして見せた。これを尚書に詔して曰く「米豆5升、粥盂3杯を作れる。」《後漢書孝献帝紀》 八月、馮[立羽]羌が反乱し属県を寇ず。郭[シ巳]、樊稠がこれを撃破する《後漢書孝献帝紀》 九月、桑がまた桑の実を生み、人は食べるを得る《後漢書孝献帝紀》 秋九月、曹操は鄄城に還る。呂布は乘氏に至り、そこの縣人である李進に破られ、東に行って山陽に駐屯する。ここにおいて袁紹は人を遣わして太祖に連和したいと説得させた。曹操は新たに兗州を失い、軍食も乏しく、許可しようとしたが、程昱が諌止し、曹操もそれに従った。《三国志魏書武帝紀操》 司徒の淳于嘉が罷める《後漢書孝献帝紀》 冬十月、長安の市門が自壊する《後漢書孝献帝紀》 冬十月、曹操は東阿に至る《三国志魏書武帝紀操》 衛尉の趙温を以って司徒・録尚書事と為す。《後漢書孝献帝紀》 十二月、安定郡・扶風郡を分けて新平郡を置く。《後漢書孝献帝紀》 この歳、楊州刺史劉ヨウは袁術の将孫策と曲阿に於いて戦い、敗れる。孫策は遂に江東に拠る。太傅の馬日磾は寿春に於いて薨る。 是歲、陶謙が死に、劉備が之に代わった《三国志魏書武帝紀操》 誕生者 死没者 劉範(左中郎将) [ネ中]劭(前の益州刺史) 馬日磾(太傅) 陶謙:徐州牧 ▲PAGE TOP 193年<< >>195年
https://w.atwiki.jp/imaska/pages/323.html
郭嘉伝郭嘉(字:奉孝)(カクカ/ホウコウ) 郭嘉伝 郭嘉(字:奉孝)(カクカ/ホウコウ) おなじみ不良軍師。夭逝した天才、曹操の親友という要素も相まって、架空戦記の軍師中人気はトップクラス。 ほとんどの戦記で女好きとして描かれる。 出演作品:閣下で三国統一、曹操P業、その時貧乳が動いた、im@s演義、765プロ三国時代、真三国志、美妓皇帝、魏史まこと伝、中華争奪戦、後漢流離譚、ういぽセブン マキシマムiM@S、おれ達、黄巾賊!、三國夢想、三国×M@ster、春香と小鳥の三国志 俗称:不良軍師 作品名:閣下で三国統一遊び人風だが決めるところは決めるスーパー軍師。曹操の方針が明確なため他戦記に比べやや影は薄め。 作品名:曹操P業許昌の飯店にて仕官の誘いに来た曹操に目もくれず、あずさの乳に釣られ仕官する。 曹操の魂の友としてアイドル談義に華を咲かせたり口喧嘩したりしている。 最期は華佗の治療も虚しくあずさ達アイドル全員に看取られ陳留にて没す。その葬儀は国葬で執り行われた。 作品名:iM@s演義郭図の推挙で袁紹軍の幕僚会議に招かれるも、その席で袁紹や幕僚たちを酷評。結局袁紹には仕えないまま、その後に南蛮亭で食事中の亜美と許劭に出会う。 仕官先として目をつけていた曹操の人物評を許劭に聞いて喜び、許劭たちの食事代をおごると言ったのが運の尽き。 既に亜美が凄まじい量の料理を食べていたため、有り金の殆どを払う羽目になるわ、店長(金環三結)に凄まれるわと散々な目に。 作品名:765プロ三国時代曹操のアイドル趣味の同志。同じくアイドル趣味に傾倒している。 「乙女の柔肌より敏感なセンサー」を作り出して宛で律子達を待ち構えるが、風で誤作動し味方が混乱。その隙に宛を攻め落とされ、魏延に捕らえられる。 一見忠臣のような言動をして抵抗するように見せかけ、アイドル達に(18歳未満には不適切な)拷問をさせようとしたが、その言動を勘違いした唐紀によって解放されることとなる。あわれ。 作品名:真三国志曹操軍の軍師。軍議をサボるなど不良軍師らしく気ままな振る舞いをする。 この動画では主に陳宮とともに勢力紹介等の解説を担当する。 作品名:美妓皇帝伊織軍のルー語軍師。その神算鬼謀ぶりは史実の通り。 襄平攻略戦にてその智謀で活躍し、己の欲望まで満たそうとするも荀彧に看破され投獄される。 作品名:魏史まこと伝フリーダムと断言されてしまった曹操軍の不良軍師。女好き。おっぱいはあってもなくてもいいが巨乳は好き。 情報は速さを第一としており、真の仲間が集まるといの一番に駆けつける。そして夏侯惇に政庁に連れ戻される。 金銭や名誉などには目もくれず、純粋に楽しんで曹操のために軍略を披露する、ある意味タチの悪い男でもある。 作品名:中華争奪戦一度死んでからも相変わらずの不良軍師だが、燃え尽き症候群にかかった曹操を自分なりの言葉で立ち直らせた。 独眼流政宗の妻たちを見てティンと来、是非仕官させるよう説いた。 作品名:後漢流離譚あずさと伊織の登場により、北伐後の死亡フラグがへし折られる。相変わらずの不良軍師だが、冴え渡る智謀が本来の歴史を塗り替えていく。 ガチガチの巨乳派。伊織には目もくれない。 自分を救ったあずさに恩を感じながらも、曹操の天下のためには(あずさ本人が損をしない程度で)利用することを厭わない男。 作品名:ういぽセブン マキシマムiM@S番外編では曹操死後に曹丕を担ぎ出して曹家を二つに割ってしまう。荀彧と戦って見たかったというのが理由らしい。 本編では女性で美浦の調教師。やよいを見ると興奮して鼻血を出す。765プロ社員の荀彧、アイドルの程昱とは腐れ縁。 作品名:おれ達、黄巾賊!やはり曹操とは友達付き合いをしている。戦略だけでなく碁でも無類の強さで、華琳と打った際は詰みまでを完全に読みきっていた。 華琳との賭けもノーリスクハイリターンの条件を引き出しており、軽そうに見えて中々食えない。 娘に稟がいる。華琳には親娘揃って不遜な物言いをすると呆れられているようだ。 雪歩を「ゆきぽ」と呼び何かにつけて可愛がるが、その雪歩をダシにして限界を超える徴兵を強いるなど黒い部分は黒い。 作品名:三國夢想曹操軍壊滅後に「良い乳の軍師がいるらしい」と河北に渡った。 公孫瓚の配下ではなく律子の配下として働き、隙あらばセクハラを狙う。 一応律子を気遣う一面も持つ。なお、百合もイケる口。 南皮城攻防戦では、馬超率いる6万の軍勢を火攻めで打ち破る。戦死約5万+董卓焼き豚などの大戦果を挙げた。 作品名:三国×M@ster袁術軍軍師。珍しく真面目。真の隊を同士討ちさせるなど優秀さは損なわれていない。 作品名:春香と小鳥の三国志陳留に流された千早へ、荀攸とともに軍略などを教えた師の一人。 千早を口説いたりπタッチするなど自重しないが、含蓄のある助言もする。どこまでが真面目なのかつかみ所がない。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/wiki13_musou/pages/30.html
フリーモード ステージ一覧 年代1 交趾救援戦・孫堅軍 交趾救援戦・南蛮軍 黄巾の乱・討伐軍 黄巾の乱・黄巾党 長坂逃亡戦・黄巾党 汜水関の戦い・連合軍 年代2 虎牢関の戦い・連合軍 虎牢関の戦い・董卓軍 界橋の戦い・公孫瓚軍 江陵の戦い・孫堅軍 徐州掃討戦・曹操軍 徐州掃討戦・陶謙軍 年代3 寿春の戦い・孫策軍 呉郡の戦い・孫策軍 宛城の戦い・曹操軍 宛城の戦い・張繍軍 下邳の戦い・曹操軍 下邳の戦い・董卓軍 年代4 官渡の戦い・曹操軍 官渡の戦い・袁紹軍 関羽千里行・関羽軍 汝南逃亡戦・劉備軍 大徳救出戦・劉備軍 黎(レイ)陽の戦い・曹操軍 夏口の戦い・孫策軍 年代5 長坂の戦い・曹操軍 長坂の戦い・劉備軍 赤壁の戦い・曹操軍 赤壁の戦い・連合軍 襄陽の戦い・劉備軍 荊州四郡攻略戦・孫権軍 年代6 馬家捕縛戦・曹操軍 潼関の戦い・曹操軍 益州侵攻戦・劉備軍 黄河の戦い・呉軍 黄河の戦い・袁紹軍 合肥の戦い・魏軍 合肥の戦い・呉軍 定軍山の戦い・蜀軍 年代7 樊城の戦い・魏軍 樊城の戦い・蜀軍 夷陵の戦い・呉軍 夷陵の戦い・蜀軍 南中平定戦・蜀軍 南中平定戦・南蛮軍 石亭の戦い・呉軍 合肥新城の戦い・魏軍 合肥新城の戦い・呉軍 白帝城の戦い・呉軍 年代8 五丈原の戦い・魏軍 五丈原の戦い・蜀軍 赤壁復讐戦・魏軍 長江決戦・呉軍 赤壁決戦・蜀軍 第六次北伐・蜀軍 長安攻城戦・蜀軍 建業の戦い・魏軍 許昌の戦い・呉軍 成都の戦い・魏軍 董卓軍 虎牢関の戦い・董卓軍 村:有 宝物庫:孫二娘 勝利条件 袁紹の撃破 ステージ達成度100% 出現武将:貂蝉 出現ステージ:下邳の戦い・董卓軍 下邳の戦い・董卓軍 村:有 宝物庫:冒頓単干 勝利条件 曹操の撃破 ステージ達成度100% 出現武将:呂布 袁紹軍 官渡の戦い・袁紹軍 村:有 宝物庫:華佗(西兵糧庫から下に1つ、左に1つ行った野戦場の下) 宝物庫:成吉思汗(白馬城から上に2つ、右に1つ行った野戦場の右) 勝利条件 曹操の撃破 ステージ達成度100% 出現ステージ 黄河の戦い・袁紹軍 黄河の戦い・袁紹軍 村:有 宝物庫:服部半蔵(南攻撃拠点から1つ下の野戦場の右) 宝物庫:鍾離昧(北砦の左) 勝利条件 孫権の撃破 黄巾党 黄巾の乱・黄巾党 村:無 宝物庫:浅井長政(東砦から上に2つ行った野戦場の右) 勝利条件 何進の撃破 ステージ達成度100% 出現ステージ:長坂逃亡戦・黄巾党 長坂逃亡戦・黄巾党 村:有 宝物庫:無 勝利条件 曹操・孫堅・劉備の撃破 南蛮軍 交趾救援戦・南蛮軍 村:無 宝物庫:石田三成(北防御拠点から2つ右の野戦場の上) 勝利条件 孫堅の撃破 ステージ達成度100% 出現ステージ:南中平定戦・南蛮軍 南中平定戦・南蛮軍 村:有 宝物庫:濃姫(北東防御拠点から下に2つの野戦場の右) 勝利条件 諸葛亮の撃破 ステージ達成度100% 出現武将:祝融 左慈 大徳救出戦・劉備軍 村:無 宝物庫:無 勝利条件 劉備の脱出地点への到達 ステージ達成度100% 出現ステージ:宛城の戦い・張繍軍 宛城の戦い・張繍軍 曹操脱出東拠点制圧後右の野戦場に移動する→中央砦の左右に道が開通し、曹操が本陣を目指すようになる。 村:無 宝物庫:稲姫(中央砦から上へ2つ行った野戦場の右) 勝利条件 曹操の撃破 曹操撃破で絶影 他勢力ステージ達成度オール100% 副将:貂蝉・猛獲・田豊・帯来洞主・呂範・金環三結・えんにょう峰紀 -- (名無しさん) 2009-10-31 21 34 51 逢紀 -- (名無しさん) 2009-10-31 22 20 44 交趾救援戦「孫堅軍」寿春の戦い「孫策軍」白帝城の戦い「呉軍」許昌の戦い「呉軍」の出現方法を教えてください。 -- (司馬懿) 2011-02-25 01 42 54 大徳救出戦の出し方教えてください。 -- (おら) 2011-08-04 16 29 48 大徳救出戦は左慈をだしたら出る -- (ヒデ) 2011-09-24 12 20 31 大徳救出戦敵・味方、少ないです。 -- (呂布) 2012-09-28 23 04 22 長江決戦ってどうやったら出るんですか?(´Д` ) -- (さつきんぐ) 2012-12-27 22 44 54 左慈欲しいーーーーーーー -- (チョウリョウ) 2013-03-26 17 32 52 名前 コメント すべてのコメントを見る